■□ 甘い声音で、ささやいて □■
しまったと、呑もうとした息を奪われる。
与えられた重力に逆らおうにも若さと勢いに適う筈もなく、口惜しい事にしたり顔の為すがまま。
衝撃を考え強張らせた体を、しかし逞しく発達した腕に抱きとめられた。
「しまったって顔だな」
獰猛な笑みは狩を愉しむ豹よろしく、あなやと言う間に押し倒され喉笛に喰らいつかれた。
「痛いよ馬鹿」
「隙を見せたお前ぇが悪い」
敵に背を向けるなんざ殺ってくれと志願しているようなもんだと 強者の余裕を瞳に湛え、尚も「がるる」と食んでくる。
痕でも残されたら堪らない。
悪戯の過ぎる仔狼(こども)をどうしたものかと考える。
「んな事考えられなくしてやるよ」
いつの間に寄っていたのだろう眉間を 和らげるように口付けられた。
「生憎だがお前には俺を殺れないよ」
「・・・・・・・殺ってやるよ」
囁かれる意志の強さに 押し殺していた快楽(けらく)が疼いた。
命の遣り取りさえも、お前とならば甘い交媾に変わる。
『誰かに殺られる前に、必ず俺が』
それは切望。
背を向けたのは、――殺られるため。
■□ 指を絡めて、寄り添って □■
優しいその感触は、俺の指を何の抵抗も無く迎え入れる。
しかし次の瞬間には指の股を玩ぶが如 素気(すげ)無い愛撫を施し飄飄と逃げていく。
差し込む度に受け入れてはくれるものの、
掬っても残らず 追いかけても掴まえきれない。
天邪鬼な割に芯があり それはそれは強靭に真っ直ぐと伸びている。
「お前みたいだな」
「俺の髪だからな。満足したか?」
少し不機嫌そうな恋人の、あまりの鈍さに苦笑した。
「髪は男の生き様だな」
温厚な見た目を裏切りせっかちな彼は、どういう意味だと先を促した。
珍しく束ねていなかった緋色の髪を掻き回す。
そうしてもう一度 先刻同様指を差し入れてみると、
今度はまるで逃すまいとするように絡み付き 所々で幾度と無く引っ掛かる。
それが妙に、快感だ。
背後から小さな体をきつく抱きしめる。
頬を寄せると緋のそれからは、洗い立ての石鹸の香りと 彼の優しい匂いがした。
「お前は一体何がしたいんだ」
益々斜めになっていく恋人の機嫌とは裏腹に、俺の機嫌は上上だった。
■□ 息をひそめて、微笑んで □■
「ここに置いておくからな」
「おう」
返事は直ぐに呑気な鼻歌へと取って代わった。
風呂特有の残響の所為で定かではないが、あるいは彼の気に入りの都都逸かもしれない。
そんな些細な疑点はさて置き、近頃剣心は左之助に大きな疑義を抱いていた。
もしかしたら彼は神谷邸(ここ)を宿屋か何かと勘違いしているのではなかろうか、と。
食事をとり、惰眠を貪り、風呂に入り、寝酒を愉しむ。
毎回手ぶら、好きな時に好きなだけ好きな事をしに姿を現す。
夕餉を食し帰る日もあれば 今回のように続けて泊まる事もある。
風来坊の為にそこまでしてやらなくとも良いのだろうが、
剣心のすかすかの箪笥にはいつからか 左之助の着替えが常時納められるようになっていた。
それを篭に置いてやる。
先刻から否応なしに目に飛び込んでくる惨状を 一度は見過ごそうとしたものの、
気短な剣心の長い長い葛藤の末、脱ぎ散らかされた彼の一張羅を軽く畳んでは次々ともう片方の篭へ掛けていく。
その手際の良さとは裏腹に、甘い自分への叱咤を重々しい溜息に雑ぜてそっと吐き出した。
鉢巻、褌、下袴、晒、それから・・・・と。
剣心の眇められた瞳の先では、いつも幅を利かせている惡が所在無さげにうつ伏せっている。
その様がどうにも可笑しくて、堪え切れなかった喘ぎが漏れた。
「何でえ」
「何でもないよ」
思わず大丈夫かと声を掛けてやりたくなるそれを拾い上げる。
主人を護るには頼りなさげだが、それでも自分と出逢うずっと前から、こうして彼の背を誇り続けてきたのだ。
当分止まりそうにない笑みと感謝に、彼が風呂を上がるまで その功績を愛おしむ事にした。
■□ 側にいさせて、抱きしめて □■
隠しきれていない微咳に、双方顔を見合わせ苦笑を漏らした。
「もっとこっち来い」
「大丈夫だよ」
がらんどうの長屋の一室 先刻から止まったかと思えばすぐにぶり返す剣心のそれに、
もっと暖めてやりたいと思えど 身を寄せ合うように被っている薄っぺらい布団の他はなく、
どうしたものかと思案する左之助の眉間に幾重もの皺が寄った。
剣心の瞳に驚きの色彩(いろ)が広がる。
自ら舎弟と名乗り出る程彼に近しい人物であっても、それはなかなか拝めるものではないだろう。
出逢ってから幾度と秘密の逢瀬を交わし 幾夜を共に過ごしてきた剣心でさえもが、
それは初めて見る左之助の 憂いを秘めた表情だった。
自分の為に崩されたその顔をもっと独り占めしていたいような、
それでも自分如きの為にそんな顔をさせてしまっては申し訳ないような。
捕らえ所のない感情を持て余した剣心は しかし何をか思いつき、
皺くちゃになってしまった左之助の眉間を急いで摩る。
「剣・・・・」
「こっちの方が温かいよ」
大切そうに抱きしめられていた体で、抱きしめてくれていた彼を大切に抱きしめ返す。
「ならよ もっとくっつけ」
爛漫に笑う左之助の並外れた強力で 剣心は一息に引き寄せられる。
「馬鹿。痛い。もうこれ以上は無理だよ」
言葉ほどに険の無いはしゃいだ批判が 夜明けを惜しむように暫くの間、がらんどうの長屋の一室に響いていた。
■□ 月も待たずに、キスをして □■
驚かせてやろうと忍ばせた気配と足音。
しかし初めて目にする彼の有り様を前に、不覚にもこちらが驚かせられる破目になった。
悔しい事に、ではなく、それは不思議な事に。
夕餉の支度、風呂焚き、洗濯物の取り込みと、常ならば忙しなく動き回っているであろう時間帯。
だが彼は縁側に独り腰掛け、濃紫(こむらさき)の眸は ただ静かに暮れ泥む空を追うばかり。
あたりの静寂に溶け込む彼は 頗る儚く朧げだ。
静止画のような光景に息を呑む。
あまりに無防備な横顔、矮小な躰を印象付ける いつにも増して華奢な肩、頼りない気勢。
一流の剣客に有るまじき姿態を目の当たりにし 緊張の余り喉にべったりと張り付いてしまった声帯(こえ)を、
それでも彼へ自然を装い投げかける。
「よう、剣心」
ふと盲(めしい)のように彼は虚ろな視線を泳がせ、数瞬後にその眸は漸く裏木戸の前に茫と突っ立つ俺を捕らえた。
「ああ、左之助」
先刻までの沈鬱な表情とは打って変わり 満面の笑みと共に伸ばされた手の元へすぐにでも駆け出したい衝動を、
近寄り難い彼の気を受けて震え出しそうな膝が阻む。
すると待ちきれないとでも言いたげにすっと通った眉を吊り上げ、彼は子供のように唇を歪ませた。
「剣心」
不自然に見えぬよう柄にも無く細心の注意を払い、
警鐘をも思わせる激しく轟く鼓動をどうにか落ち着かせ 恋人の元へ歩み寄る。
「遅かったな」
「ん?ああ・・・そうか?」
「皆今朝方出たきり、明日まで帰って来ないんだ」
剣心曰く 家の者は出稽古で出払い、留守居を任されたらしい。
「だから暇を取らせてもらったよ」
そう笑む剣心が、俺にはどうにも悲しく映った。
皆の為にといつも温かい湯を焚き美味い飯を作るくせに、己の事となるととんと無頓着で横着になる。
それが風呂や食事に関してだけならば まだいい。
人助けの名の下 時に己の命さえも顧みない無鉄砲な振舞に、俺は歯痒ささえ覚えてしまうと言うのに。
「薫殿達を見送った後、早くお前が来ないかここでずっと待ってたんだ」
「そう・・・だったのか」
「でも暫くして気付いたよ。ああお前は修殿達と賭場に居るのかもしれない。
或いは艶麗な女性(にょしょう)との逢瀬を愉しんでいるのかもしれない。
それとお前は幼子にも人気があるからな。学習塾の子らの面倒を見ているのかもしれない。
或いは・・・・・・」
「ちょ、ちょっと待て剣心」
彼の言わんとする事が判らず、対応に困る。
「だからな、」
何をか発しようと開きかけた口はしかし直ぐに固く閉ざされ、
彼が知られたくない心境を有耶無耶にする時によく使われる微笑を浮かべた。
「剣・・・心・・・・・・・・」
誰よりも彼の近くに在るのはこの俺だと言う自負が、瞬間脆くも崩れ去る。
彼の力に、彼の背中に、彼の存在に近付く事だけに躍起になり、
果たして彼の魂(こころ)の愁訴に、深い嘆きに、耳を傾けようとした事があっただろうか。
口惜しいがあの不良警官の言う通り、俺の砕身は所詮ひよっこの背伸びに過ぎなかったのかもしれない。
「どうした、拾い物にでも中ったか?」
揶揄するように無邪気な笑顔を繕う剣心は しかし俺の異変を機敏に感じ取り、どうやら心配をしてくれているらしい。
「ばっか、それはお前だろ?こんなおっかねえ顔して」
「・・・・そう、だな」
泣き出す前のようにくしゃりと顔を歪め 静かに俯く。
その顎に手をかける寸前、満面の笑みで「しようか」と問うてきた。
陽が落ちる前の情事を嫌う彼の らしくない申し出に途惑う。
「なぁ・・・今日の剣心変だぜ。どうかしたか?」
「俺から誘うのは可笑しいか?」
「いや・・・・・いやそうじゃねえ」
小首を傾げ、解らないと言ったように円らな瞳が覗き込んでくる。
言いたくないのならば無理に口を割らせるつもりは無い。
尚もしようと笑む彼の、望み通りにしてやる事にした。
×××××
「月を待ってたよ」
消耗しきった身体を弄ぶように俺の腕の中で寝返りを打ち、彼は唐突に切り出した。
「月?」
どうやら先刻縁側で見上げていたのは空では無く そこに浮かび来る筈の月を探していたらしい。
「ああ。お前を独り占めできるのは夜だけだからな」
だから昼は嫌いだと、彼は遠慮がちにそう付け加えた。
それは自嘲でも俺を責めるものでもなく、どうしようもないと言った風情で剣心は笑む。
「何だよそれ。んな訳あるか。俺は朝な夕なお前ぇの事ばっかだ」
抱きしめ、彼の頬と言わず額と言わず白い肌えに口付けを贈る。
「お前ぇが嫌いってんなら俺も昼は嫌いだ」
彼を脅かす物は許さない。その存在を一つずつ否定していく。
「陽の光りも眩過ぎていけねえ。市街(まち)の喧騒も駄目だ、ありゃあ煩くてたまらねえ。太陽なんか糞喰らえだな」
満足げな彼に、常の強気な輝きが瞳に戻る。
「俺はな、左之。月とお前だけいてくれればそれでいいんだ」
面白そうに奔放な笑声を上げる彼の耳朶(みみ)に愛を囁く。
「俺にはお前だけで充分だ。月も要らねえ」
俺の最高の我儘に、それでも彼は欲が無いなと微笑んだ。
もう一度しようと言う彼の誘いを受け、改めて剣心を強く抱きしめ直す。
気付けば日もとっぷり暮れ、開け放したままの障子からは 昇り始めたばかりの月が 冷たい横顔を覗かせていた。