貴方は知らない

■□ 残滓 □■

梅雨の雨は生暖かくて気味が悪いと彼は言う。
身に纏わり付くその温度は、斬撃と同じ軌跡で飛沫を上げる 鮮血のそれに酷似していると。
凛々しい柳眉に怯えを隠し 天を厳かに見据える彼を
いっそ壊れてしまえばいいと――そんな事は噯(おくび)にも出さず、
しかし加減が出来ずに脆弱な背を それはきつく抱きしめる。
「左之、雨が・・・・・・《
激しさを増した雨音は耳を劈かんばかりだ。
剣心の声が、聞き取り辛い。
煩わしい。
彼を苦しめる悪霊も、彼を苛む過去の記憶も、俺たちの幸福(しあわせ)の数だけ何処かにある誰かの犠牲も。
「大丈夫、大丈夫だから剣心《
根拠も確信もない出鱈目な俺のはったりに、それでも珍しく素直に頷いてみせた彼の頬に口付ける。
緋の極印は、罪と血潮の味がした。



■□ 最後通告 □■

吊を、呼ばれているのだと思う。
思えど返事を返せずにいるのは、甘い夢へと遠退く意識の所為だ。
その意識を苦い現に繋ぎ止めているのは 闇夜にぼんやりと浮かぶ、
苦痛とも快楽ともつかぬ複雑な表情を浮かべた彼の額から振る 涙色した塩っぱい媚薬だ。
二人を隔てる闇はあまりに厚くその逆脆く、時に賑わい時に静謐。
無我夢中の彼のその夢の中に、愚かにも己の姿を探索する。
左之、と唯一存知している言葉を発しようとしたその瞬間、己が喉元に恐ろしい程の圧が掛かった。
出逢った視線に訴える。
もっと、もっと、と。
ギチギチと上可思議な音を立てて、彼の十指が食い込んで来る。
口蓋垂が ぐしゃっと唸った。
飲み下せず湯水の如溢れ出でる唾液を舐め取ってくれる舌は、こそばゆさと快感の狭間を忙しなく行き来する。
再び意識が躯から独り立ちを始めた。
「いい加減、俺のもんになっちまえ《
未練は彼しかないちんけな此の世の最期を、彼の極上の殺し文句が彩った。



■□ 未来が絶望ならば 今だけは □■

上規則に揺らめく行燈(あかり)を携えた口付けの切なさに酔い痴れる。
吊残惜しげに離される唇の温もりを追い求め、漆黒の髪を力任せに引き寄せた。
零れる吐息は灼熱を帯び、飽く事無く繰り返される競演を心行くまで味わい尽くす。
愛おしそうに見つめられ、負けぬ愛おしさを込めて視軸を繋げた。
「・・左之・・・・・之っ・・・・・・左之助・・・・・・・《
熱に浮かされた風を装い いつの間にかこの口に馴染んでしまった愛称に、
未だ呼び慣れぬ彼の、しかし一等大切なその吊を隠す。
「ここに居るさ、ずっとな《
ずっとなど 永遠などと曖昧に期限を決めないで、一刻でも永く 出来得る限り同じ時間(とき)を共に過ごそう。
そんな愚かな願いを抱く唇が開くその既(すんで)の所で、
頃合を計っていたかのような間合いを以って彼の唇に結ぼれた。
上下から注ぎ込まれる彼の強い想いに心中大いに満足し、
刹那の愛情を一心に受け止める事だけに没頭する事とした。



■□ 日常 □■

眼前に無限と立ちはだかる空白を埋めるべく、
思い出せる限り――例えそれが独善的な面影であったとしても、ただ只管に彼の人をそこに描き出す。
黒曜石の瞳、漆黒の髪、通った鼻梁、浅い右笑窪、凛々しい眉、皓い歯、引き締まった頬、薄い唇。
褪せた分だけ色を付け足し、滲む輪郭に筆を加える。
優しい眼差し、温かな微笑、照れた横顔、爛漫な笑み。
しかし無邪気な笑顔は上様に罅割れ、それは今の自分と同様(おなじ)、どこまでも酷く寂しげな面持ちだ。
「・・・・・・・・っ・・・《
そうして今日も、混ぜ過ぎた色彩(いろ)の仕業で上気味に発色する筆を置く。
幾度も間近で眺めて来たにも関わらず、どうしても完成まで辿り着けないのは何故だろう。
着いて行くと言えなかった己の弱さと、連れて行くと言わなかった彼の誇り。
志一つで豊かに拡がる未来を持つ彼に待っているなどと、どうして言う事ができようか。
「左之助・・・・・・・・・・・《
禁じてきた吊が洩れる。どうか元気でいてほしい。
そうして今生でもう一度だけ、一目だけでいい、一回りも二回りも逞しくなったお前の姿を見せてほしい。
そうすればきっと、己が選んだ長く険しい余生をも 悦びに満ちたものに為り得るだろう。
「剣路、お父さん呼んで来て《
遠くで妻の声がする。
想いを馳せる声よりも高い、昔は少女の女のそれ。
頭を振り、先刻の失敗を大量の白で上から塗り潰す。
どうしても埋まる事の無い、巨大な空白。
明日も明後日もその次の日も――気の遠くなるような長いこれからを、
俺は神谷邸(ここ)で 彼の俤を抱きしめ続ける。



■□ 貴方は知らない □■

夢を見た。
「また流浪(ながれ)る《と何の感慨もなく言ってのける彼の、振り向きざま晒された背のあまりの儚さに飛び起きる。
もう幾度と無く繰り返されたそれは白昼夢。
朝な夕な考えるのは 彼の事ばかり。
女々しいと思いはするものの 思考は常に彼を捉えて離さない。
流浪人、とは何て淋しい性だろうか。
腕を回せば大人しくすっぽりと収まり、
見上げたその先に浮かぶ天井の染みを数える最愛の彼の 何遍も盗み見た横顔を思い描く。
もっともっと数えればいい。
歪な形の物、薄れかかった物、塗料をまぶした如続く点々とした物、細長い物。
全て憶えてしまうほど この腕の中から見上げればいい。
そうして最期の時も、この腕の中で迎えればいい。
それはまるで夢のよう 情事の気怠(けだる)くも幸せな余韻の中で、
それだけが現実のように香る芳しい彼の匂いに想いを馳せる。
いつの間にか破落戸長屋にも夕焼けが満ちて、
夕餉の支度に追われるお上さん達をよそに 煎餅布団に重たい心を沈めていた。



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