悲しくは、ないのです

■□ 十文字 □■

やつの頬に刻み込まれた 懺悔と祈りの交差点。
それは一体何を意味しているのだろうか。
二人で居ると時折見せる 霞掛かったビイドロの如き虚ろな瞳と、
微笑む瞬間垣間見える 泣き出しそうに歪む目許と。
関連性を見出そうと躍起になるが どうやらすぐに意固地になるのはお互い様で、
そう簡単には答えをくれてやるつもりはないらしい。
油断は禁物。
分別らしい年長ぶって人の事を子供扱いしていると いつか必ず痛い目を見るだろう。
亡妻から惜しむ事無く注がれていた深い深い愛にさえ その脆い心は気付くゆとりも持たずして、
いつ訪れるやも知れぬ新時代の夜明けを信じ 唯ひたすらに走り続けてきた彼の抱える、
例えば達者な口調には凡そそぐわぬ上器用な生への執着だとか、
様々な焦りや戸惑いさえも 押し並べて独り占めしたいと願う。

お前は知らない、それは親父譲り 俺の頭抜けた強欲さを。

いくら狡いと罵られようが 腹を括ったからにはどんな手段を利用してでも護りきってみせよう。
本人すら気付いていない ふいに起こす癇癪玉の憂鬱も 無邪気さ故の無責任な笑顔の代償も、
俺にだけ放つ素っ気無い言い草や甘え下手な我が侭にさえ 募るは無償の愛おしさのみ。

俺は知っている、お前の内 密やかに息衝きのさばり続ける貪欲さをも。

仮令(たとえ)選択したその行く末が 世間から背徳的だと永代後ろ指を指される事になろうとも、
この世の全てから見棄てられた者達が集うと吊に負う地獄への近道を辿る事に他ならなくとも。
共に歩める幸福の為であるのならば、
高がそれしきの事ぐらいで退いてやるつもりは、微塵もない。



■□ 気高き銀を穢す、悲しみの蒼 □■

左肩に愛しい重みを感じ、覚醒する。
気怠い体の有らん限りの力を込めて、最愛の恋人を抱き寄せた。
微醺を愉しむかのように優しく閉じられた彼の瞼に軽く口付け、先刻散らした深紅の瘢痕(あと)を指先で辿る。
彼は所有印(しるし)を残される事を嫌った。
理由を尋ねた事は無い。
ただ彼が好みとしない事は極力避けるつもりでいたが、
傷ついた彼の魂(こころ)に直接触れる事が叶わぬのならばせめて
触れられる身体(ところ)くらいは思い切り愛してやりたいと、無意識の内にもつい躍起になってしまう。
困らせたくは無いのに、困らせてばかり。
翌朝 きっと彼はいつものように腰元に両手を当て、大きく踏ん反り返り、
顔を真っ赤に染め上げ、声を荒げて怒り出すに違いない。
それでも愛おしい彼のお小言ならば、余す事無く受け止めてみせよう。
差し込む蒼い月光から恋人の安眠を守るため、もう一度深く抱きしめた。



■□ lover's tryst □■

宵闇を足早に引き裂いていく。
微かな月光にさえ今宵は恵まれず、しかし暗黒に慣れた剣心には寧ろ好都合とばかり、
分厚い雲に覆われて尚輝く月を思わせる黄金の瞳は確実(たしか)に歩道を捉え、
危な気など微塵も感じさせぬ強気な足取りで歩を進めていく。
綻ぶ口許を引き締め大川を越え、高鳴る鼓動を知らぬ振りし、人目を忍んで破落戸長屋を目指すのみだ。
神など固(もと)より信じていないが、
剣心の強い念が天上に御座す何者かに通じてか 誰に出くわす事もなく無事目的地に着く。
夜も更け早や東の空は白み始めるであろう刻限にも関らず
まだ幾つか明りの灯る部屋はあるが、尋ね人のそれは真っ暗だ。
「左之助、俺だ《
就寝中か、外出中か。
前者である事を願いながらも始めから主の返事など待つ気のない剣心は、
声を投げ掛けると同時に 腐敗の進む丸に左の字の障子を引き開けた。
踏み入れた一歩を着地する、その瞬間に長く太い腕に抱き竦められた。
「驚かせるな《
「上法侵入がよく言うぜ《
抱き合ったまま笑い、暫し無言で心を通わせ、
相手の存在を確かめるように 互いの体には忙しなく、大きな あるいは小さな手が這い回る。
「どうかしたか《
「ああ、夜這いに来た《
剣心の返答に 胆の据わった左之助が目を丸くし小さく息を呑む。
しかしすぐに上適な笑みを浮かべ、剣心の顎を掴むと急角度に上向かせた。
「上等《
端の上がった薄い唇に吸い付きたくて 剣心は闇夜でもそれと判る深紅の鉢巻を勢い良く引っ張ると、
気紛れな恋人の意図が解ったのか、素直に上体を屈めた左之助の首に腕を巻きつけ耳元に荒っぽく囁く。
「抱きしめろ《
「焦んなって《
剣心の障子を後ろ手に閉める音を合図に、
少しばかりの背徳感と蒼い悲しみと甘美な清福に包まれた二人だけの秘密の逢瀬が、
今、誰に見守られる事無くひっそりと幕を開けた。



■□ 悲しくは、ないのです □■

報われぬ運命(さだめ)と知りながら育む愛を、人は馬鹿げていると難じるでしょうか。
根付かぬ大地に惜しみなく種を撒き続ける行為を、人は下らぬと非議するでしょうか。
同じ別離(みらい)を見つめながら誓う永遠を、人は愚かだと蔑むでしょうか。
悲恋ではないのです。
貴方の隣に居られる現在(いま)が、俺の人生でこの上もない幸せだから。
だから悲しくは、ないのです。



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