■□ 終止符 □■
忍(しのび)の如く息を詰め、
飽く事無く映し続けてきた愛しい人の眼差しを これが最後だと読経のように反芻し、
滲む永遠をこの目にしかと焼き付ける。
長らく禁じられてきた本来の役割を果たせる瞬間(とき)を間近に控え、
息吹く鼓動を捕らえた刃は研ぎたてと見紛う程に嬉々と耀き、
俄かに揺らめく行灯か 朧に震える月光か、浮かぶ無邪気な笑顔に心が痛んだ。
大好きだった彼の体臭が錆びた鉄と相俟つ頃、
鈊い確かな手応えと共に 淫ら流るる彼の血液(いろ)。
泥絵具よりは粘度のあるそれを人差し指で掬い取り、己が十字を紅蓮の惡で染め上げる。
何よりも我が身に馴染む筈の血腥さは しかし吐き気を催す促進剤にしかならず、
突き上げる焦燥に視界ばかりが怪しく歪んだ。
頑丈なのが取り柄だと、そう大らかに笑んだのは嘘だったのか。
修羅(おまえ)の最期を看取ってやると、そう大見得を切ったのははったりだったのか。
苦渋の別離(わかれ)に ともすれば潰れそうな胸の痛みを耐え忍び、一つの恋に終わりを告げる。
「愛してるよ 左之《
思い返せば常に受け取る側だったため かつて一度も口にした事の無かったそれをうそむいてみるが、
やはり思った通り酷くちっぽけで、
思いのほか重い真実(いみ)を含んでいる事に気付いてしまった。
■□ 預言者 □■
絶え絶えに、
それでも言の葉を繋げようと必死に動かされる口許を食い入るように見つめる。
もういいと口を挿みかけて、懸命に訴える瞳がそれを遮った。
引き攣った微笑みが痛々しい。
剣を自在に操ってきたとは思えぬ程に痩せ衰えた体躯(からだ)を、以前の半分の力で抱きしめる。
呼吸に合わせて苦しげにひゅうと鳴る胸の音と か細い声が、
聞こえやすいよう彼の口許に近付けた耳に流れ込んできた。
「・・・・・・・・・っ・・・・《
堪えていた筈の涙腺が上意に緩んだ俺の変化に 己の主張が通じたと判ったのだろう、
彼は嬉しそうに恥ずかしそうに、目の縁を赤くさせて それは柔らかく笑んで見せる。
そんな事、俺は初めから知っていた。
今更言わなくても、お前の事なら誰よりもわかっているのに。
何も、今更・・・・・・。
荒い呼吸の合間に告げられた 彼の最初で最期の告白。
『左之助、愛してる』
■□ おいてけぼり □■
永遠の片恋を全うする決意の無精髭。
それがまさか何年か後に、お前の気に入りになろうとは。
彼の細い指が幾度も面白そうに触れたのを思い出し、真似て撫で付け その根元に刃を添えた。
同じように、俺の気に入りの緋い髪も少しばかり。
決して交わる事の無い黒と緋を、懐紙に包み 己が胸元へ忍ばせる。
静かに伏せられた瞳と、優しい弧を描く唇と。
横たわる彼の、安らかな表情が唯一の救いだろう。
「またおいてけぼりか《
こけて掴めぬ頬を それでもせめてと、生前(いぜん)喧嘩の際によくしたように引っ張る真似をする。
思っていた程、涙は出なかった。
置いていかれた寂しさはあれど、魂を引き千切られる胸の痛みはあれど、彼を失う事への恐怖は無かった。
「そっち行ったら必ず探し出してやるからな《
死後の世でもなお俺は必ず彼を見出し、再往(ふたたび)恋に落ちると確信している。
「それまで暫くの辛抱だな、剣心《
応えるように、彼がふと笑んだ気がした。
これが最後だと言い聞かせ、緋色の君の生きた香りを抱きしめる。
■□ 悲色の楽園 □■
気が付けばもう後戻りなど許されぬ処まで来てしまっていた。
隣を歩きたがるお前を一歩後ろに携え先頭を行く。
目的地も告げず、ただ闇雲に歩き続けるばかり。
一月か半年か十年か、或いは果てなどないのだろうか。
軋む足の関節も、疾うに感覚を失っていた。
それでも一度として異を唱える事も無ければ 引かれる腕を振り払う事も無く、
それは愉しそうに彼はどこまでも従順に着いて来る。
道連れを従えてなどかつて想像にさえ及ぶ事の無かった旅の途中、
心地好いと彼の讃える虫の音に嫉妬し、小麦色の耳を切り取った。
芳しいと彼の讃える花の薫りに嫉妬し、すっと通った鼻筋を削ぎ落とした。
綺麗だと彼の讃える光景に嫉妬し、黒い瞳を刳り貫いた。
甘美だと彼の讃える食物に嫉妬し、蠢く舌を噛み切った。
しかし彼は叫びも批判も一言たりとも発する事は無く、愛故のその醜態を夢みたいだと朗らかに笑むばかりだ。
漸く目的地に着き、背にしてきた彼と向かい合う。
彼に聞かせてやりたかった睦言も、嗅がせてやりたかった芳香も、
見せてやりたかった絶景も、食わせてやりたかった美味なる物も、此処には全てが揃っているのだ。
「左之、お待たせ。着いたよ《
背負い続けてきた最愛の彼の亡骸に、甘えるように頬擦りをする。
俺は至極、満足だった。
愛する彼に人生の最期を任され、愛する彼に人生の最期を委ねるのだ。
免疫の無い幸福に、身体が震える。
彼が気に入り幾度も覗き込んだ瞳も、愛を告げた唇も、
恋を囁かれた耳も、彼の体臭を吸い込んだ鼻腔も、全てを彼に捧げよう。
二人が重なり合い伏せる下には、一面の赫(あか)。
俺の好きな色に包まれ、好いた者の腕に抱かれ、生を全うする。
此処は二人だけの常世の国。
共に生を分かち合い 共に朽ち果てるのが夢。
なあ、お前もそう思うだろう?左之助。
■□ Garden of Eden □■
どこまでも拡がる暗闇をただ我武者羅に掻き分けて、愛しい彼の姿を探す。
ここまで来てはみたものの、果たして直ぐに見つかるだろうか 彼は呼び掛けに気付くだろうか。
らしくもない少しばかりの上安を他所に、揺れる赤毛を思いの他簡単に見つける事が出来た。
案外と意気地の無かった己に驚きを覚えつつも、一呼吸し、久しぶりに恋しい吊を呼ぶ。
振り返り、俺を認めた瞳の色はあの頃のまま、
泣きそうに歪められた笑み崩れる表情も 僅かに影を宿した面持ちも、
何もかもが倖せだった、数十年前のあの頃のままだった。
「左之!《
随分と使われる事の無かった独特の呼び吊が耳に心地好い。
照れたようにはにかむと、途惑いながらも満面の笑みで駆け寄ってくる。
「思っていたより早かったな《
長年夢にまで見た小柄な身体を抱きとめれば、木綿のように軽く 墓土の匂いがきつく染み付いていようとも、
生前(まえ)の彼の重みと体臭(におい)が色鮮やかに甦る。
「約束どおり、待ってたよ《
子供が褒められるのを待つように誇らしげに胸を張り 嬉々と見上げてくる瞳に接吻を贈り、
もう一度彼の胸に顔を埋めて胴を掻き抱く。
「左之?《
何故泣くのかと訊ねられる。
幸せだからに決まってるじゃねえか。
どうやら野暮なところも変わってはいないようだ。
「すまねえ、待たせちまったな《
最早涸れたと思っていた涙を拭う優しい手をさせたいままにし、
心配そうに覗き込んでくる彼に笑顔を返してこれからの事を思い描く。
やっとこれで人目も憚らず 時間に追われる事も無く、彼と二人でずっと寄り添っていられるのだ。
何と俺は果報者だろう。
「剣心《
何よりも毛嫌いしていた口約束を守ってまで、
俺が此処へ来るまでの長い歳月を 彼はこうして一人で待っていてくれたのだ。
「今度はずっと一緒だ《
花の如綻ぶ笑顔を独り占めした天罰ならば この俺が幾らでも喰らってやろう。
今度こそ、亡霊からも閻魔からも俺が彼を守りきってみせる。
『なあ剣心好きだぜ。今もこれからもずっと俺と居てくれねえか。死んだ後も生まれ変わっても、ずっとずっとだ』
頷いた剣心の耳には 幾つも昔の夜の睦言が柔らかく蘇っていた。
■□ いつか約束した場所へ □■
寂しがりやで意地っ張りで甘えん坊な俺の恋人。
来世でもまた、逢いましょう。